就職できなかったフリーランスライターの日常(8)

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就職できなかったフリーランスライターの日常(8)
縁とは奇なり

卒業式後、A編集部の入社ができないことを伝えられたわたしは、そのまま学生という肩書きを失った。わたしに残ったのはコミュニティFMのボランティアパーソナリティ、家庭教師、母が経営する宿泊施設(※2012年に閉業)の従業員という肩書きだけ。だがどれだけばりばり働こうとも、世間はわたしを無職もしくは家事手伝いと見ていた。

だがうじうじしていても埒が明かない。ひとまず学生時代にお世話になった音楽業界の人に営業のメールを送った。「ボランティアで構いませんので、記事を書く機会があればぜひ書かせてください」――1通1通、コピーペーストせずに、その人を思い浮かべながら丁寧に文章を書いた。だがほぼ返事はなく、返事が来たと喜んだら「がんばってくださいね」というメッセージだけだった。そうこうしているうちに、冬休み明けに3ヶ月購入した新幹線定期の期限が切れた。音楽の世界=東京と自分が断絶されたような気持ちになった。

2009年4月中旬。専門学校に入る前の生活に戻ったわたしは、駅前でたまたま4月下旬にグランドオープンをするカフェの募集要項を見つけた。それを見たわたしは「早朝にバイトをして、昼から家の宿泊業の仕事をすればいいかもしれない」と思い立つ。早朝はカフェのアルバイトをして、昼から夜は母が経営する宿泊施設の従業員。その合間にコミュニティFMのボランティアパーソナリティと家庭教師をする生活をしていた。音楽との関わりも薄くなってきていた2009年の夏。わたしの携帯電話に知らない電話番号から着信があった。出てみると、わたしを迎えたのは華やかな女性の声だった。

「沖ちゃん!? 久し振り! Cです、元気!?」

「わっ、Cさん、ご無沙汰しています!」

C氏は音楽ライター。インターンとして編集部Aに出入りしている時期(※コラム第6回目参照)に知り合った。C氏はわたしが好きなアーティストのインタビューを担当していて、たまたま編集部に居合わせたとき「いつも記事読んでいます。わたし、○○(バンド名)と△△(バンド名)をよく聴いているんです」と声を掛けた。対人恐怖症のわたしが意を決して自分から声を掛けたということは、相当C氏へ気持ちを伝えたかったということでもある。するとC氏は非常に気さくに「本当に!? うれしい! じゃあ今度一緒にライヴ行こうよ!」と素敵な笑顔で答えてくれた。温泉を掘り当てたように、心のなかは熱いものが沸き上がった。だが同時に「きっと社交辞令だろう」と思っていた。肩身の狭い思いをしていたわたしは、業界でばりばりと働くライターさんから社交辞令を言ってもらえることがとてもうれしかったのだ。

A編集部の出入りを辞めて数か月。C氏がいったいなんの用だろうか? 受話器の向こうの彼女はこう言った。

「一緒にライヴ行こうって言ったまま全然連絡できてなくてごめんね! もし良かったら明日○○のライヴがあるんだけど行かない?」

社交辞令ではなかった。C氏は半年前の約束を覚えていたのだ。こんなことあるだろうか。だが明日とはまた急である。だがわたしは間髪入れずに答えた。

「明日大丈夫です! 行きます! ありがとうございます!!」

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そして翌日C氏と会場の近くの駅で待ち合わせをし、○○のライヴに行った。帰り道にC氏から近況を聞かれて答えると、C氏は「もし迷惑じゃなかったらテープ起こしとか頼んでもいい?」と言ってくれた。わたしは前のめりで「いつでもお願いします!」と答えた。するとそれから数日後にテープ起こしの依頼の電話があった。当時のわたしにとって、その場の状況を妄想しながら一字一句を文字にしていくテープ起こしは、非常に興味深いものだった。そのときに「ここでこんな質問をするのか」「わたしならここをもうちょっと知りたいかな」と考えてみたり、会話の内容からどんな音楽なのか、取材場所はどんなところなのかなと想像したりと、いろいろと鍛えられた。わたしはインタヴュー現場の見学をしたことがほぼないため、インタヴューのノウハウはテープ起こしのアルバイトで蓄えたと言っていい。

その後もC氏はテープ起こしやライヴのお誘いだけでなく、彼女がスケジュール的に稼働したくてもできないライヴレポートの機会や、インタヴューの機会もわたしに与えてくれた。テープ起こしにギャランティは出たが、原稿書きに関してはボランティアだった。伊豆高原から東京まで鈍行で片道4時間半。帰りは終電に間に合わないため、母親が片道1時間かけて車で熱海まで迎えに来てくれた。朝はカフェのアルバイト、昼から夜は宿泊業の仕事とC氏のアシスタントの仕事、その合間にコミュニティFMのボランティアパーソナリティ。母親の仕事を助けながら、わたしも母親に協力してもらいながら、必死に「音楽媒体に関わりたい」という強い想いだけで毎日を過ごしていた。

同い年は大学院生か一流企業就職組ばかり。周りからは「20代半ばで就職もしないで夢を追うなんて……」なんて言われていたが、二十歳すぎてから夢に人生すべて投げうっただけでなく、専門学校2年間に300万以上注ぎ込んでいるのだ。母の宿泊業経営が倒産まで追い込まれた時期もあったし、そのあとも借金と返済を繰り返しながら経営を続けていた。お金の大切さは痛いほどわかっていた。それゆえに後戻りはできなかった。

C氏は「ライターになりたいなら、少しでも経験をさせてあげたい。わたしはそれくらいしかできないから」と言い、わたしに多数の経験を与えてくれた。C氏と出会っていなければ、わたしはきっとカフェのバイトと実家の宿泊業をやりながらコミュニティFMでボランティアパーソナリティをして家庭教師をやっている人間のままだっただろう。出会っていなかったらと考えると本当にぞっとするし気が遠くなる。

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C氏と知り合えたのは対人恐怖症の自分が勇気を出して「○○が好きだ」と言ったからだった。そして○○というアーティストを聴いていたのは、専門学校で知り合ったS氏という友人の影響だった。学科も違う彼と知り合ったのも本当にたまたま、ひょんなことがきっかけだった。彼と知り合っていなかったら、わたしがC氏に話しかけていなかったら――そう考えると縁というものはどこでどうつながるのかわからないものである。

いつの間にかC氏ともS氏とも連絡が取れなくなり疎遠になってしまった。だがわたしはいまもふたりを恩人だと思っているし、このふたりがいなかったらいまこうしてライターとしていられていないと思っている。S氏はいつだか「俺がきっかけを作らなくても、おっきーは○○の音楽をまた好きになっていたと思うし、Cさんと知り合ってなくてもライターになっていたと思うよ」と言っていたけれど、わたしはC氏とS氏のおかげでライターになれたと思っていたいし、このふたりのおかげでライターになれたことを心から誇りに思っている。ふたりがいまどこで何をしているかはわからなくても、それはずっとずっと変わらない。

(※人生のターニングポイント2つ目は、音楽ライターC氏のアシスタント業をしたことです。あのときにいろんな経験ができたことで、プロとして仕事ができるようになりました。その話はまたのちのち。次回はアシスタント時代のエピソード、もしくは専門学校に入ってからの11年間で思うこと、どちらかを書く予定です!)

illustration:沖 丈介

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