就職できなかったフリーランスライターの日常(18)
就職できなかったフリーランスライターの日常(18)
「売り込み」をしなくて良かったタイプの人間の話
フリーランスは組織に属していないので、仕事を獲得しなければ無職である。獲得のために必要な行為のひとつが「営業(売り込み)」。わたしは2009年に学校を卒業してから2013年まではちょこちょこと行っていたが、それ以降売り込みをすることは一切なくなった。
専門学校卒業と同時にインターンで通っていた編集部Aのインターンが終了し(※第6回目のコラム参照)、無職となったわたしがまず始めたことは、卒業制作で作成した音楽雑誌を、音楽媒体の編集部に送付することだった。「お時間があるようならばぜひお読みください」と連絡先を書いた手紙を同封したが、どこからも返事が来ることはなかった。学生時代にライブレポートを書かせてもらったウェブ媒体の担当者さんに連絡をしても「がんばってくださいね」という返事のみだった。
その後は募集が出ている編集部に履歴書を出したり、ライターさんのアシスタントとしてアルバイトでテープ起こしをしたり、ボランティアでインタヴューやライヴレポートの執筆経験を得た(※第8回目のコラム参照)。2010年春、専門学校時代の講師が「ボランティアスタッフとして新しく立ち上げるライヴイヴェントのウェブサイトで、ライヴレポートやインタヴューを行わないか?」と声を掛けてくださった。2010年5月、「ライター」として紹介してもらったことをきっかけに、ライターを名乗るようになる(※第11回目のコラム参照)。
そんななか、よく聴いていたバンドのフロントマンがTwitterでインタビュー記事を拡散していた。まったく知らないウェブ媒体で、載っているアーティストもビッグなバンドに当時の若手売れっ子バンド、インディーズシーンで活躍する新進気鋭バンドなど、日本のロックシーンを総なめするようなラインナップ。「こんな媒体があるんだ。知らなかった」と舐め回すようにサイトを閲覧していたら、右下の隅っこに小さく「ライター募集」の文字があった。募集要項には「東京近郊にお住いの方」という文言があったが、「静岡県民なのですが、都内に通って記事執筆を行ってきました」とメールを送信。面談の末、お仕事をいただけるようになった。これが2010年7月の話である。
だがそこからが難関だった。なるべくライター仕事に精を出したかったため、会社員ではなくアルバイトの道を選んだ。となるとライター仕事が増えないと生活ができないのだ。たまーにアーティストオフィシャルのお仕事をいただくくらいだった。
媒体さんからお仕事をいただく機会はあったものの、わたしが大失態を犯して一度限りの仕事になってしまったり、お声を掛けていただいて何度かインタヴューをした媒体さんは、納品した記事が掲載されないまま消滅。もちろんギャラも振り込まれることはなかった。おまけに複数行っていたアルバイトも心身ともにかなりヘヴィ。辞めたくて仕方がないのに金銭面と人間関係を考えると辞められないという日々が続いていた。
その後もライター募集をしていた媒体に、これまで書いたなかでも選りすぐりの原稿と、これまでの経歴と御社で書きたい理由を筆圧たっぷりで書いた手紙を同封して送ったが、同媒体の編集者さんがTwitterでわたしが手紙で書いた内容を引用し、「わけのわからない売り込みがあった」とつぶやいていた。知人が編集長に交渉してくれるというのでまたもや選りすぐりの原稿を送るものの、返答は「機会があれば」。「機会があれば」は遠まわしの「お断り」だ。取りつく島がない。これが2012~2013年だった。
抜け出せないアルバイト生活。怒られっぱなしの日々。増えないライター仕事。八方塞がり。どうしようもない。そこで専門学校で講師をしてらっしゃった音楽評論家の先生に相談をした。「どのように営業をしたらいいだろうか?」と。すると先生の返答はこうだ。
「売り込みなんてしたら、“わたしは仕事がありません”と言っているのと同じだよ? 仕事のない人に仕事を頼もうとは思わないよ」
たしかに、と腑に落ちた。今のわたしが売り込みをするとなると、10年近いキャリアがあるので「こういう方面の仕事をやってみたいんだな」と思っていただけるかもしれないが、当時なんて積み重ねてきているものも知名度もない。媒体サイドもそんな人間を使うなら、ふだんからお世話になっているベテランライターさんに頼みたいだろう。
でもこの状況を打破するためにはどうしたらいいわけ? いつまでこの状況が変わるの? 仕事もない、お金もない、ないないばっかでキリがない毎日をいつまで続ければいいわけ? ――そこで行きついたのが「書ける場所がないなら作るしかない」ということだった。そこからウェブマガジンの構想に入り、友人たちの力を借りて11ヶ月かかってサイトをオープンすることになった。2014年11月29日。ワンタンマガジンの開設だ。
ワンタンマガジンは自腹運営で広告収入もないので、月収10万以下の人間にはかなりきつかった。取材を断られること、オファーを鬱陶しく思われること、頓挫することがほとんどで、心が折れることも多かった。だがワンタンマガジンを見ると自分がいいと思う記事しか載っていないし、たくさんのアーティストさんに協力していただいたおかげで自主制作ながらにインタヴュー記事もたくさん載っているし、カメラマンさんに撮っていただいたここでしか見られない写真が載っている。それは本当に代え難い喜びだった。
「売れてもいないくせに自分でメディアを運営している面倒な人間だ」と思われることもしばしばだったが、「ひとりで自力でサヴァイヴしているところがいいね」と言ってもらうことも増えた。なかなか仕事は増えないものの、「時間があるならワンタンマガジンを更新しよう」と思うようになった。自分の手の中ですべてを動かせる自主運営ウェブマガジンは、自分の色を出すには申し分のない環境だった。
2016年秋にアルバイトを辞め(※コラム第17回目参照)、そのタイミングから少しずつ仕事が増えていった。人づてに紹介していただいてつながった縁もあるものの、ほとんどがTwitterに書いてあるメールアドレスから連絡をしてくださった方々ばかりだ。
というわけで、2009年から2013年まで行った数少ない売り込みの成功は、2010年7月の「ライター募集」の応募の1件だけ。就職活動も一度も書類審査すら通っていないので、敗因を分析すると、文章の質云々の前に書きたい欲が強すぎて、受け取る相手の気持ちを考えずに前のめりになり過ぎたことも理由として挙げられるだろう。得体の知れない人間が猛アピールしてきたら、引く。
自分にとっていちばんの売り込みは、自分の書いた原稿を読んでいただくことだった。特に活動初期はたまたま、書きたいように書かせていただくお仕事(※アーティストサイドの修正依頼などは除く)がほとんどだったし、ワンタンマガジンはその極み。やりたいことよりも「やりたくないこと」がはっきりしていたので、「やりたくないことはやらない」というスタンスを取り続けた結果、沖さやこというライターの性質が文章や仕事内容に出てくるようになってきたのだと思う。
既にこちらの性質を理解してもらえたうえで依頼をいただくので、ありがたいことに気持ち良くお仕事ができることがほとんどだ。自分の力量で務まるかどうかが不安なオファーであっても、「でもこの媒体の人がわたしでいいと思ってるからオファーしてくださってるんだよな。じゃあ自分なりの精一杯で書いてみよう」という気持ちのもと書くようにしている。
いま与えられる仕事、いま自分で行動に起こせることを一生懸命やって、その精度を上げるための努力を惜しまない――それだけに力を注いできた。時間は掛かっているけれど、一つひとつ積み重ねてこれた実感がある。それができたのも、肩書きやキャリアやコネもないなかで、わたしの仕事を認めてくださった方々のお陰でしかない。
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