長距離移動するフリーランスライターの光陰 (12)

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長距離移動するフリーランスライターの光陰
(12)電車に忘れ物

 

わたしはほとんど忘れ物をしない。それだけ心配性で、常に気を張っていて、自分を信用していないからだ。どこへ行くにも必ず確認をしてから立ち去るようにしているし、網棚を使うときは荷物を全部網棚に置いて手ぶらにすることで、自分に警鐘を鳴らす環境を作っている。

あれは残暑の厳しい、よく晴れた日だった。わたしは体調不良を抱えながら連日の激務を綱渡りの状態で走っていた。ライブレポートを終えた後、徒歩で横浜駅まで戻り、電車に乗って駅から原付で家に帰った。家に着いたのは20時前だった。

夕飯もシャワーも済ませ、寝る前に少し仕事をしておこうと、この日持ち歩いたトートバッグから使い慣れたポーチを取り出そうとした。冷房を避けるストール、化粧品道具、充電器、手帳、メガネとサングラス、日焼け止めとハンドクリーム、除菌ティッシュとマスク、ペットボトル飲料、日傘などなど、まさかの事態に備えたトートバッグには、ありとあらゆるものが入っている。だがここまで漁り続けているのに、一向にポーチが手に触れない。嫌な予感がする。

「いや、まさかそんなことがあってたまるか」

ラーメンズのコントの小林賢太郎風の口調でつぶやいてみるものの、その声は震えている。あのつるりとした柔らかい感触が、指にまったく訪れない。焦りながらとうとうかばんをひっくり返した。そこにポーチはなかった。

急いで原付に走った。カゴの中にもシートの中にもない。帰宅後脱いだ服を入れた洗濯かごを見た。やっぱり入っていない。まずい。ない。これは本当にない。全身の血の気が引く。

kyorifuko12_2落ち着け。思い出せ。間違いなく終演後、レポート用のメモを取るペンを、そのポーチに直した記憶がある。あのときはまだあった。思い出せ。思い出せ。そういえば帰りの電車で、車内が閑散としたタイミングで取り出した。もしやそのときか……? 記憶をさらに深く辿ってみる。疲れで朦朧とした頭のなか、いつも以上に物がたくさん入ったトートバッグからポーチを取り出し、斜め掛けバッグに入れていたUSBメモリをポーチに戻した記憶がおぼろげながら浮かんできた。

このポーチは母と弟が10年前に誕生日プレゼントとして買ってくれたもので、中には仕事で使うこまごまとした貴重品やリップクリーム、文房具などが入っている。なかでも高額なのがICレコーダーだった。値段よりもまずいのは、このレコーダーの中にはアーティストのインタビュー音声が入っているということだ。アーティストも人間であるため、ついほろりと自身の個人情報に近いことを口にすることはしばしばである。それが外に出てしまうのは由々しき事態だ。とんでもないことをしてしまった。冗談かと思うくらい全身が震え始める。

キーボードを押すのもままならない手で、JR東日本のサイトの「お忘れ物チャット」に登録する。これは忘れ物の問い合わせをチャット形式で受付し、該当する物品があるかを確認できるサービスで、返信が来るのは朝8時から19時の間である。

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比較的すぐに返信が来る、非常にありがたいサービス

乗っていた電車と号車、座っていた座席、ポーチの特徴や中身など事細かに登録してみたものの、返事が来るまで気が気でない。夜眠れる気がしない。そわそわした心臓が止まらなかった。どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。うるさい心の声は外にまで漏れていた。そんなわたしの様子を覗きに来た母が言った。

「駅まで行ったほうがいいんじゃない?」

あ、そうか! 直接行けばいいのか!!

時刻は23時半を回っていた。我に返ったわたしはすぐさま駅まで(制限速度で)すっ飛ばした。わたしが降りたのはその電車の終点の駅で、そのあと列車は車庫に入るというアナウンスも流れていた。あれだけ派手な色をしていて、それなりに存在感のあるポーチだ。車内点検をした職員さんが見つけてくれている可能性もゼロではない。だが脳内はネガティブに支配されているため、エンジン音に乗せて「もしかして帰り道の原付を運転中にトートバッグの中からこぼれたか? この道のどこかに落ちているかもしれない。駅になかったら道を走りながら探そう。朝までコースも致し方ない」と考えていた。

駅に着き、改札の駅員さんのところに駆け寄る。乗っていた電車の到着時間、乗っていた車両、座っていた座席の位置、ポーチの特徴を伝えると、駅員さんもすぐさまパソコンを触り出す。しばらくすると駅員さんがおもむろに上体を起こした。

「それらしきものが届いているみたいです」
「えええ!! 本当ですか!!!」

kyorifuko12_1中身をあらためて答え、急いで構内の忘れ物センターに行く。ホームのこんな真ん中にこんな場所があるなんて知らなかった。ノックをして扉を開くと、こじんまりとした部屋の中に、駅員さんが2名。こんな夜遅くにこんな狭い部屋にふたりも駅員さんがいるなんて、と一瞬怯むも、その駅員さんのそばには見慣れたポーチの姿があった。

「こちらですか?」
「あああああ!!!!! そうです!!!!!」

終点だったため、車内点検をした人が保管してくれたとのことだった。もし乗っていた電車が熱海行き、沼津行き、伊東行きだったら……と考えると再び全身に震えが走った。本当に良かった。駅の皆さんに大感謝!! 無宗教だけど神様にも大感謝!! テンパッてるわたしに「駅に行ったら?」と言ってくれた母にも大感謝!! ありがとう世界!!!

とはいえICレコーダーなんていうライターにとって替えの効かない貴重品を入れているポーチを電車の中に置き忘れるなんて……と10日間くらい自己嫌悪で凹み続けました。今もこれを書きながら凹んでいます。バックアップを取ってあるからOKとかそういう問題ではない。アーティストの個人情報を持っている責任ある立場だということを、あらためて肝に銘じる機会となりました。

 

◆「長距離移動するフリーランスライターの光陰」記事一覧

 

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