感傷ベクトル田口囁一とLyu:Lyuコヤマヒデカズが語る、表現者の苦悩と信念(前編)
◆歌のなかで「誰かの味方になりたい」と思うことがある
――囁一さんはLyu:Lyuのどこに魅力を感じていますか?
田口 音楽における人間くささは、感傷ベクトルよりもLyu:Lyuのほうが圧倒的だと思うんです。自分も鬱屈したタイプの人間で、その感情がわぁーっとなって作ることもあるんですけど、それをあんまり作品に反映できなくて。Lyu:Lyuはそれを第三者に伝わるかたちで出せる、作品にできていることが魅力であって憧れるところなんですよね。Lyu:Lyuの歌をうたっていると大泣きしたあとの気持ちになれる。でも自分の作るものにはそれがない。僕の場合は感情を吐き出すように作ったとしても、翌朝見返すと「うげ!」と思ってしまって、言い方や矛先を変えてこねくり回して、その結果人の手に渡る頃にはだいぶ落ち着いちゃうんです。ナノウさんはそういう経験ないのかな……と思って。
コヤマ 冷静になって見返すとものすごく独り善がりな曲だったり、これはさすがにちょっと……と思うことも正直ある(笑)。でもそういうところにこそ本当の自分が入っているんじゃないか? と思うんです。だから敢えてそのままにしているところもある。それと俺は自意識を遠ざけて世界を作ることを恥ずかしいと思っちゃうんですよ。だから囁一さんが自意識の出たものを次の日に見て「うわ!」と思うように、俺が自意識を遠ざけたものを書いてそれを次の日に見たら「うわ!」と思っちゃう(笑)。
田口 あ~、なるほど!
コヤマ 自分の言葉で書きなぐることのほうが性に合ってるなと思って、だからいつもそういう書き方になっちゃうかな。……でも俺は音楽を作るうえで“半々”なんですよね。自分の表現欲や承認欲求が半分と、あとの半分では「聴いている人たちに対して自分が何ができるだろうか」「自分を信じてくれる人たちに対して何が言えるんだろうか」と外に向かって考えている。でもこの半々はどちらに傾いてもダメで。常にそのバランスを取ろうとしているところはあるかもしれない。
田口 そのふたつはどちらもやるのに勇気の要ることだと思うんですよ。自分の本当の部分を織り込んだものを世に出すということは、そこを笑われたときのダメージって結構クリティカルじゃないですか。自分の場合はそれが怖いから抑制しているという選択を取っていたりもして。ナノウさんはそういう危険を冒して、さらに受け取る人にどう作用するのかという50%を乗せている。それがかっこいいなと思う。
コヤマ 自分がこういうことをするようになったのは、絶対に聴いてきたバンドの影響もあって。よく「作られた作品と作った本人の人格はイコールであるべきか?」という議論が行われるけれど、syrup16gやTHE BACK HORN、BUMP OF CHICKENみたいに、俺が好きになった人たちはそこがイコールな人たちばっかりだった。嘘がないことに惹かれていたし、それに感動してきた経験がたくさんあったから、自分が作り手になったときに自然とそれをやるようになったところがあって。
――パーソナルなことを歌うことで笑われる可能性についてはいかがですか。
コヤマ それを見たときはものすごく傷つく。でも自分は本気で思っていることを書いているし、自分がいいと思ったものをいいと思う人、自分が悲しいと思うことを同じように悲しむ人、自分が感じた喜びを同じレヴェルで喜んでくれる人は絶対にいるはずだから、そういう人を探しているような感覚……かな。「わかってくれる人はいるはずだ」と信じているところはあるかもしれない。
――それは万人に受け入れられるものではないですよね。
コヤマ そうですよね。言葉のある曲を歌っている人間として、歌のなかで誰かの味方になりたいなと思うことがあって……それは別の言い方をすると誰かを敵に回すことでもあると思うんです。だからその人の代わりにその人を苦しめているものを自分がぶん殴らなきゃいけないこともある。だからとにかく大勢の人に受け入れられるようにというよりは、敵と味方がはっきりしていることを書こうとしているところはあります。願わくばその味方が多くあってほしい、という感じかな。