長く音楽を続けたい――歩みを止めず進み続けたBrian the Sunの10年(前編)
◆「次のライヴがどうよくなるか」を考えるのが楽しかった
――そのあとギタリストがふたり脱退し3ピースに。2007年に、当時影響を受けたARCTIC MONKEYSの【Brianstorm】(※2007年リリース、2ndフルアルバム『Favourite Worst Nightmare』収録)からインスピレーションを得てBrian the Sunへ改名します。この年からBrian the SunはFireloopを拠点に活動していますが、まずなにがきっかけでライヴハウスに出演するように?
森 掲示板……?
小川 さっきの「カウンター」に続き懐かしい言葉やな(笑)。
白山 僕らのホームページにも掲示板があって、そこに千日前にあるアナザードリームというライヴハウスから「ライヴしませんか?」という書き込みがあったんです。そこで競演したバンドから誘ってもらって、緑橋にあったSEVEN DAYSというライヴハウスに出るようになって――そのあとにSEVEN DAYSと天王寺Fireloopの交歓イベントがあったんですよね。同じ面子で7月にSEVEN DAYS、8月にFireloopでライヴをして。それが初めてのFireloopやったんですよね。そのときに「あ、こっちのライヴハウスのほうが俺らに合ってるな」と思ったんです。
森 Fireloopは人が良くて。SEVEN DAYSもいいライヴハウスやったんですけどね。
白山 でもSEVEN DAYSはお酒が盛んなライヴハウスやったから、高校生の俺らにはちょっと難しい部分も多くて。それからFireloopに毎月お世話になるようになりました。高校からも近かったし、平日のブッキングは学校早退して、ちゃんとリハから出るという(笑)。
森 俺は「ライヴの日に学校とか行く気せえへんわー、教科書重いしー」と思ってたんで(笑)、ライヴの日はとりあえずマクド直行して、ライヴのリハまでそこで時間潰してました。
――そのときはどんなテンションでバンド活動をなさっていたのでしょう?
白山 僕は全然クラブ活動です。
森 俺は「どうせバンドやるなら、真面目にやろうかなあ」とちょっと(バンドを本格化させていくことを)掴もうとしてましたけど。先のことも考えてないし過去もないから、1本ライヴやったらそのライヴから次のライヴがどうよくなるか……みたいなすごく狭いことしか考えてなくて、それが楽しくて。毎回ライヴ音源を聴き返して改善点を見つけたりしてました。
白山 そのときに同い年のLONEというバンドと仲良くなって、真司に出会うわけです。真司はLONEの友達で、LONEのライヴを観に来ていたお客さんやったんですよね。「友達の友達やから友達やろ?」みたいな感じで仲良くなって。
森 (※小川を見ながら)「金髪でバイク乗ってイカツイやつおるわ~。怖いわ~。ライヴハウス怖いわ~!」って思ってました(笑)。
小川 ひゃー、ヤンキー!(笑) そのときは俺もライヴハウスに入り浸ってる時期で。ライヴハウスはとりあえず行ったら友達おる、みたいな遊び場でした。
白山 地元のライヴハウスやから、キッズが来るのではなく、仲間が集まってだれかのレコ発をお祝いしに行く、終わったあとにみんなで喋る、みたいな感じでみんな仲良くて。
――そして迎えた2008年、高校3年生。Brian the Sunが初回開催となる「閃光ライオット2008」に出演し、準グランプリを獲得する年でもあります(※当時のグランプリがGalileo Galilei、審査員特別賞がねごと)。
白山 僕はクラブ活動のつもりやったし、英語の先生になりたかったからバンドは引退する気やったんですよね。でもオリジナル曲をやっていたことはかたちに残したくて、記念としてCDを出したかった。CDを出したからには売りたいから、大きいライヴがしたい。それでフェスに出たいなあと思ったんです。それでリハスタにあった閃光ライオットのチラシを見つけて応募したんですよね。でも出したことをすっかり忘れて……メンバー全員大学受験をするので、2008年4月に勉強のためにライヴハウスの出演をやめるんです。その数ヶ月後に閃光ライオットの2次審査の封筒が届いて、メンバー間で「どうする? またスタジオとか入る?」という話し合いがあり。
森 「まあちょっとくらいええやろ」と。俺はここで受験勉強をやめた。
白山 あ、そこでやめてたんや(笑)。それで閃光ライオットの本選まで行って、そこで駿汰と出会うんですよね(※田中は当時The Musiqueというバンドで閃光ライオット本選に参加していた)。この4人としてバンドがスタートしたのは2011年やけど、出会いは2007~2008年なんですよね。