就職できなかったフリーランスライターの日常(2)
就職できなかったフリーランスライターの日常(2)
ライターを目指したのは、ライター以外の仕事を目指したから
16歳の時、母親がペンション経営を始めた。父が他界してから、わたしと弟を育てるために早朝から夜中までがむしゃらに働いてきた母。「子どもたちに“いってらっしゃい”と“お帰りなさい”を言える仕事がしたい」という理由での開業だった。手に入れた物件は伊豆半島の東側にある城ヶ崎海岸のはずれ、富戸港のすぐ上。海から徒歩30秒、もちろん海一望。その日水揚げされた魚が食べられる、のどかないいところだった。ただ、文化的な要素は皆無な環境、すなわちド田舎だった。
19歳の時、伊豆諸島地震の影響でペンション経営がうまくいかず、大学を諦めざるを得ない状況になった。田舎で悶々とする日々が続いた。そんなとき、ペンション経営を通じて知り合った漁師さんが「お母さんから聞いたよ。さやこちゃんは音楽が大好きなんだってね。コミュニティFMでボランティアパーソナリティを単発でやってみない?」とわたしに声を掛けた。
城ヶ崎海岸が位置する静岡県伊東市には、コミュニティFMがあった。どうやら地元の高校生や会社員が担当している番組などもあるらしく、若者がボランティアパーソナリティをやることは大歓迎で、その漁師さんもパーソナリティをしているという。おしゃべりの経験がない対人恐怖症のわたしに務まるか不安だったが、局員の人と話して実際に録音をしたところ「マイクの乗りがいい声だ」と絶賛された。この声も10代のときにからかわれる原因のひとつだったため半信半疑だったが、褒められたことはむず痒くもうれしかった。
ペンションの仕事をしながら家庭教師のアルバイトをし、コミュニティFMのボランティアパーソナリティとしてレギュラー番組を持つようになり、そろそろ再び学校に通おうか、と思ったのが2005年の秋。だがいまさら再び大学に入る気も起きず、「せっかくボランティアとはいえパーソナリティをやっていて、いい声だと言われているのなら、この道に行くのが手っ取り早いのではないか。おしゃべりの勉強をしよう」と思った。
わたしはさっそくラジオパーソナリティ科のある専門学校の資料請求をした。数日して続々と様々な学校から分厚い豪華なパンフレットが届いた。早速ラジオパーソナリティ科のページを開く。そのカリキュラム内容や、卒業後の就職先、どのようなルートでラジオパーソナリティになるのか……などの内容を見たわたしの脳内は、鉛をふんだんに含んだのかと錯覚するほど重かった。ただでさえ対人恐怖症。巧みな話術を習得できたとしても、それを発揮できるかは危うい。ネガティヴオブネガティヴのわたしは明るい未来を想像できず、そのパンフレットを無気力に部屋の床へ放り投げた。
それから数日経ち、部屋で悶々として暇を持て余していたわたしの目に、床に転がっていたパンフレットが飛び込んできた。「どうせ暇だしほかのページも見てみるか」とおもむろに手に取り、なんの気なしにぱらぱらと眺めていた。なんだかんだ「名門国立大学こそ正義」というようなエリートコースを息切れしながら走っていたわたしは専門学校に対する知識がなく、パンフレットを見ながら「専門学校ってマニアックな科がこんなにたくさんあるのか」と驚きの連続だった。その時、ふと目にとまったのが「音楽ライター・編集デザインコース」のページ。内容を読むと、ライターになるための授業や、実際にライヴレポートやディスクレヴューを書く実習もあり、卒業制作では雑誌を1冊作るという。そのとき、わたしの全身の血が一気に沸騰していくような、突風が吹き荒れるような高揚に襲われた。頭のなかはこの言葉しかなかった。「やってみたい」。胸の高鳴りは抑えようがなかった。
その勢いのまま仕事中の母親の元に行き、「わたし、音楽ライターコースに行こうかと思うんだけど、どうかな」と恐る恐る告白。すると母はキョトンとした顔で言った。「母さんは絶対そうするべきだと思ってたよ。文章を書くのも、音楽を聴くのもあんなに大好きなのに、なんでおしゃべりのほうに行こうとしてたのか全然意味わかんなかったもん」。拍子抜けだった。つうかそれ早よ言うてくれや。
というわけでわたしは音楽メディアの世界を目指すことにした。2006年に入学しても良かったが、もう少しお金を貯めたかったのと、なんとなく直感的にいまじゃないな……と思ったため、入学は2007年に持ち越した。その期間は音楽雑誌を読んだり、音楽のアンテナを広くしたりと、ど田舎に住んでいる自分でもできる範囲でトレーニングをした。
音楽メディア系のコースがある候補の学校4つのなかから、東放学園音響専門学校を選択した(※ちなみにいまの東放学園音響専門学校は学科はあるがコース分けをしていない)。思い起こせば「ライターコースに進もう」と思ったきっかけのパンフレットも東放学園だった。ここからわたしの第二の人生がスタートする。積み上げたキャリアを全部捨てて挑む、そんなわくわくとどきどきに怯えながらも胸をときめかせていた。
思ってもみない道に突き動かされたとき、その衝動に身を委ねてみるのは悪いことではないと思う。それは自分の心の声なのか、それともどこからともないお告げなのか、実態は知りえない。だが神秘的な体験によって人生が変わったという事実を迎えられたことは、とても貴重な経験で、死ぬまで忘れることはないだろう。
※次回は専門学校入学を決めてから入学までの葛藤について。やっぱりいるんです、人の夢を笑うやつは。でも応援してくれる人もいるし、人なんてどうでもいいんです。と思えるようになったのは最近だけど。
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