就職できなかったフリーランスライターの日常(9)

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就職できなかったフリーランスライターの日常(9)
「好き」という気持ち

ライターを志して専門学校に入ったわたしが、「もしライターになれたとしても、これが不安だな」と思うことがふたつあった。そのうちのひとつが「“好き”という気持ちの付き合い方」だ。

その当時からわたしはライターはフラットな立場で音楽を聴くべき立場だと思っていた。贔屓なんてもってのほか。10代の頃からどんな作品も歯の浮くような言葉で賞賛するライターも、盲目的なラヴレターみたいなディスクレヴューやライヴレポートも好きではなかった。だが好きという気持ちをなくしすぎるのもどうなんだろうか……と思っていた。

そんな時に、専門学校で音楽業界で働く人間が講義をする授業に音楽ライターが登壇した。わたしはそのライターの女性に「好きという気持ちはどの程度持っていていいのか?」と質問をした。すると彼女は「好きという気持ちは消すべきではない。惜しみなく表現すればいい」と返答をした。第一線で活躍する人がそう言うならそういうものなのか、と無知なわたしはその言葉を素直に受け取った。

okicolumn9_1仕事をしていくうちに、20代から30代になるうちに、好きという概念そのものに変化が及んできた。いまのわたしのスタンスとしては「評価の高い箇所が多い=好き」という、捉えようによってはとても冷めていて理性的な考え方に落ち着いている。だがその時に直感はものすごく大事にしていて、「うわっ、すごくいい!」と思った瞬間にすぐ「なぜわたしはいいと思ったのだろう? どこが優れているのだろう? なぜ彼らはここに至ったのだろう?」と思考を広げていく。わたしにとっては感情と思考を結びつけることが、文章を書くうえでのヒントになるのだ。

そもそも、人前に発信するために言葉に落とすというのはとても客観的な行いだ。感情まかせに書きなぐる文章の躍動感ももちろんあるし、若いうちはその初期衝動でなんとかなる部分も多かった。だがその時期を通り過ぎて、ここ数年は感情を丁寧に言葉に落とし込むことを大切にしている。

だが「好き」という概念は人によって異なるものだ。わたしの「好き」とあなたの「好き」も違うだろう。わたしが普段Twitterなどの不特定多数の人が見る場で「◯◯が好き」とあまり言わないのはこれが理由でもある。駆け出しのころは特に、自分の「好き」を「盲目的な恋心」と勘違いされることが多くかなり苦労してきたし、そんな浮ついた気持ちでこの仕事をしていると思われることが本当に悔しくて悲しくて仕方がなかった(この話はまたいつか)。

音楽と書くことがこの世で好きなものツートップだけれど、正直言えば音楽よりも書くことが好きだ。それ以外にも好きなものはたくさんあるし、もっと知らない世界をたくさん覗いてみたい。音楽について記事を書くときは、音楽ファンとしてではなく「音楽を愛するライター」として文章を書きたいと思っている。読者さんやファンの方々がインタヴューに同席しているようなインタヴュー原稿にしたいし、ライヴレポートやディスクレヴューは読者さんやファンの方々と対話するつもりで書いている。

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わたしの頭のなかには常に読者さんが第一にある。それは10代の時に、雑誌のなかだけが楽しそうで読者が置いてけぼりになるようなインタヴュー記事を読んでいて、「この記事にわたしの居場所はない」と寂しさを感じたからだった。音楽メディアで「アーティストサイドだけに宛てた文章」「アーティストしか見ていない文章」「独りよがりな文章」を見掛けるたびに、読者を二の次にするならばファンレターを綴ればいいのではないかと思う。

だがわたしの言う「読者」に、もちろんアーティストも含まれる。ファンの方々に読み応えを感じていただけて、そのアーティストに興味がない方々にも音楽を聴かない人もどきどきわくわくできるような、そして図々しいかもしれないけれどアーティストにいい刺激を与えられる文章を書くことがわたしの目指すものである。それはライターを志した時からずっと変わらない。

ライターと言う立場で文章を綴る場合「好きだ!」と伝えたいとは一切思わない。すべて行動を起こすエネルギーになればいい。好きだからこそちゃんと「評価」がしたい。けっきょく全部が愛なのである。

illustration:沖 丈介

就職できなかったフリーランスライターの日常 過去ログ

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