就職できなかったフリーランスライターの日常(20)
就職できなかったフリーランスライターの日常(20)
東日本大震災が駆け出しライターに与えた影響・前編
2009年3月11日は、専門学校の卒業式だった。午前中の卒業証書授与式と14:30からのホームルームの間に、スーツ姿の男友達と袴姿のわたしのふたりで歌舞伎町へ飲みにいったのは本当に黒歴史でもありいい思い出である。2010年3月11日は専門学校時代の友人――先述のスーツの男の子ともうひとり女の子が、当時住んでいた伊豆まで遊びに来てくれて、3人で伊豆と箱根をドライブをした。山奥で鹿に遭遇したり、心霊現象が起きたり、すごく楽しい時間を過ごすことができた。
毎年3月11日はいいことが起きるような気がしていた。だが2011年3月11日、東日本大震災が起きた。
14時46分、突如大きな揺れに襲われた。ライター1年目のわたしは、渋谷の雑居ビルの地下の一室で打ち合わせ中だった。曲がりなりにも地震大国の静岡県民歴10年選手、東京は震度5であること、揺れ方からして震源が関東でないことは明白だった。
すると考えられる震源地は新潟、仙台福島、そして静岡だった。わたしが生まれる前から「いつ起きても不思議ではない」と言われていた東海大地震がとうとう来てしまったのかもしれない――頭のなかには家族と当時のバイト先の面々の顔が浮かんだ。手持ちの携帯電話で電話をしようとするも回線は混み合って使えない。ひとまず打ち合わせをしていた面々で、近くの小学校へ避難することにした。
その小学校で震源が東北であることを知った。ひとまず家族の人命に心配がないことがわかり安堵した。その時点で東北や東京がどんな状況かわかっていなかったわたしは、電車もそのうち動くだろうと暢気に思っていて、「渋谷は人が多いのでひとまず代々木八幡まで歩いていこう、小田急なら動いてるかもしれない」と思った。
その打ち合わせに参加していた下北沢在住の同世代の女性ライター・庄司さん(仮名)がわたしについてきてくれた。申し訳ないから大丈夫だと言ったのだが、彼女は「本当は家に泊められればいいんだけど、人を入れられるような家じゃない。でも家が遠い沖さんがこんな状況でひとりなんて絶対心細い。だから付き添う」と言う。1時間も歩けば家に帰れるのに。優しさが眩しかった。
代々木八幡に向かうも、やはり小田急は動いていない。ひとまず駅の近くにあるドトールコーヒーに入ることにした。お茶を飲みながら庄司さんとライティングに関する話をしていると、その場にいた人間の携帯電話から夥しい警告音のエリアメールが一斉に鳴り響いた。その瞬間、「あ、今日はまじでやばい」と初めて底知れない恐怖に襲われた。
携帯電話は着信があってその電話に出ても音声はつながらない。電池は減る一方。ずっとここにいてもラチがあかないということで、再び渋谷に戻った。その道中は紫色の夕陽で包まれていて、道行く人は非現実的な状況にわくわくしているようにも見えた。その様子を見て、違うベクトルの恐怖心が強まった。駅前に行くと、ふだんは誰も見向きもしない公衆電話に50m以上の行列ができている。あきらかに異様な光景だった。
我々は共通の知り合いがいるバーに行くことにした。店は帰宅難民の人たちが妙なテンションになって盛り上がっていて、大繁盛だった。だが従業員は渋谷に来ることができず人手が足りないということで、バーテン経験がある庄司さんはカウンターへと加勢に行った。
生きた心地がしないまま裏で待機していた22:00を過ぎたあたり。お店の人が「井の頭線が動き始めたらしい」「ドコモの電波が入るらしい」と言う。慌てて携帯の電源を入れてmixiにアクセスすると、下北沢に住んでいる専門学校時代の友人が「帰れない人うちに来てくれていいよ」と書き込んでいた。庄司さんに声をかけようと思うもかなりの忙しさのようで、本当に申し訳ないなと思いながら言伝を残して渋谷駅井の頭線ホームへと向かった。駅のフロアに到着した瞬間に行列が動き出し、そのまま電車に乗ることができた。
下北沢駅に友達が迎えに来てくれた。突然の訪問を詫びると、彼女は「わたしもひとりじゃ怖かったから泊まってくれてありがたいよ」と笑った。彼女の家でTVを観ると、どのチャンネルもずっと津波や倒壊の様子が流れていた。わたしはヘトヘトだったから寝てしまったが、彼女は怖くて寝られず、TVを消せないままだったと言っていた。
明朝、小田急が復旧したということで7時ごろに下北沢を出発し、午前中に伊豆高原に帰り着いた。現地の方々に比べたらまったく大したことはないが、本当に大変な22時間だった。だがこのあと、二次災害というやつに大いに苦しめられることになる。
※次回に続く。
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