コントユニット・モノスグランデ小山耕太郎の「コラマず」第12回~逆にラララくらいが良い場合もあるの難~

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コントユニット・モノスグランデ小山耕太郎の「コラマず」
第12回「逆にラララくらいが良い場合もあるの難」

 

今回のコラムは、「音楽と歌詞」について。

僕自身コントを書くときの台詞回しには、当然のことながらすごく気を遣います。そのキャラクターがしゃべる台詞として整合性があるか、十分な理由があるか。そして、笑わせる為の台詞と、状況を伝える為の台詞の副産物として笑いになる台詞、普通の台詞ではあるが状況として笑いになる台詞…などなど、大カテゴリーの中の小カテゴリーがゴロゴロとあるわけです。メガネの大学生が半袖半ズボンの小学生数人を従えてる図を思い浮かべてください。それです。

音楽の場合リズムがあるので、リズムに溶け込みすぎても、逆に台詞になりすぎてもいけません。音楽として伝える意味とのバランス感覚が難しいようにおもいます。

例えば、ぼくが好きな歌詞〈どうせなら 作れ作れ 目の前の景色を そうだろ〉(星野源【フィルム】)があります。ここには結構いろいろ詰まってて、〈どうせなら〉というすこしネガティヴなフレーズから始まって〈作れ作れ〉という考えを無視したスピード感が続いて〈目の前の景色を〉でピタッとブレーキが効いて〈そうだろ〉で確信を問う。という流れがまたリズムの流れとガッチリスクラムで汗臭いですし肩も痛いです。これは僕の勝手な感覚の中ではすごいバランス良い部分なのです。


星野 源 – フィルム【MUSIC VIDEO &特典DVD予告編】

同じように僕がコントを書くときのセリフだと、たとえば良い説明ツッコミみたいのが浮かんだとしてもバカキャラにそれは言わせることは出来ないですし、いわゆる制約みたいなものがあるから、その中でくねくねと角度を変えながら言葉を探していく難しさがありますね。そこが面白かったりするのです。

これも好みの問題ではあるけど、僕はやっぱり「説明しない」という美学があって、コントに置いてそうであれば必然的に歌に関してもそうなってしまう。むしろ、コントよりも説明過多になっては行けないと思う。メッセージをそのまま言葉として伝えたいならばしゃべればいいだけで、音楽にする意味がない。

だから、メッセージを音楽にすることを選んだ時点で歌詞そのものに頼りきった怠慢はNGだ。説明歌詞はとても弱いメッセージのようで、そんなのダイイングメッセージで犯人の名前書いてる上に、遺体の首から伸びる凶器のロープを追いかけたら犯人の部屋に着いて、犯人がもう観念している状態だ。説明にエネルギーを使いすぎて、ダイイングメッセージが左右する物語の面白さをなくしてしまっているのだ。

だから僕はあれのネーミングが嫌いだ。

「からし酢味噌」

名前がレシピじゃないか。ちゃんと考えろ。材料3つ言ってるだけだもん泣けてくるよ。結果的に涙の塩気で味が変わっちゃってるし。

サードシングル「からし酢味噌」

これは逆に気になるから良し。

小山耕太郎

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